17歳の夏、私は日本語がわからなくなった

 

 

受験を控えた夏休み、私は日本語がわからなくなった。原因は知らん。趣味の読書は勿論、Twitterのフルテキスト140字すら理解できなくなってしまった。

 

目で単語や文を追おうとしても、目が滑って正確に文を追うことができない。一気に文を理解出来ないから少しずつ区切りを入れて読もうとするのだが、続きを読もうとするとズレた行から始めてしまい大混乱。せっかく元の文に戻る頃にはもう内容を忘れていて、脳は書かれたものを音にして読み上げるだけ。3行前の内容などとても覚えていられないから、雑誌も広告も一苦労という有り様だった。

 

当然会話をする時もこの症状は続いていて、家族との世間話にひたすら頷いたり、「うん」という短い単語で済ませる他なかった。母親の放つ一単語、いや一文字一文字の発音でさえ私の耳にはつんざくように感じられた。おはようもありがとうも言うのに以前の数倍のプロセスが必要だった。感覚的には、自分の「おはよう」は「おはよう」ではなく「ンォはヨウ」で、相手の発言をおうむ返ししようと精一杯だった。人との会話で声に出された言葉たちは、ギンギンともギュンギュンともつかない嫌な震動で、頭を直接攻撃しているようだった。

 

こんな状態でまともな受験勉強ができたはずもなく、まとまった文を読まなくてすむ世界史にしか手がつかなかった。せめてもの足しにしようと英語でディスレクシアや落ち込んだ気持ちへのアプローチを解説した動画などを観まくったが、数分の集中すら続かず大した知識は得られなかった。なんとか動画の世界史講義の音声を聞き流し、一問一答をこなし、酷暑の中でひたすら消えてしまいたいという欲求と闘った。

 

睡眠を8時間とるようにし、ぼーっとする時間を設けて、疲労を感じるイベントを避けまくった。4ヶ月ほどで大体の思考力は戻り、無事にセンター試験を迎える事が出来た。でも、以前の私とは決定的に何かが違っていると感じる。友人や家族との会話で、いちいち言葉がどの事象を指しているのか確認しなければ理解しづらくなったのだ。ハイコンテクスト文化の難しさと便利さを同時に実感した。適当に相槌を打って、適当な形容詞を挟んでおけば成立する会話でやり過ごせる事の代償のように、「情報の省略」という言語の悪魔が襲いかかって来たのだった。指示語はメチャメチャ、主語述語?サヨウナラ。何度もLINEを読み返して慎重に返信した。本当に会話についていくのには苦労した。

 

以前の自分は、そこに文字や文があれば何も気にせず読んでしまうような好奇心の旺盛な人間だったと思う。問題なく、長いタイムラグ無く、それらが何を言いたいのかも掴めていた。

意外と私達は普段からたくさんの言葉に囲まれているものだ。文字を見かけずに街を歩くなんてことはありえない。小さな広告だって、単語やブツ切りの情報だけを載せているものだけじゃなく、長めのポエム系広告や意味が複数とれるようないわゆる「考えさせられる」系広告など、種類は様々だ。昔の私はそれら全てに目を通して暇を潰したりしていた。広告も新聞も別に興味があるわけじゃない。「興味も無いけどそこに何か書かれていれば気になって読む」そんなの当たり前だと思っていた。

でも、一度自分の言葉がぐちゃぐちゃになる体験をした後の私はもうダメだった。興味のある分野の話や絶対読まなきゃいけない国語や英語の問題文、読みたいと思って自分でわざわざ検索したような記事や娯楽小説でさえ、全く読めない。最初の数行は良いのだ。ちゃんと内容を覚えていられるし、意識して心の中で文を読み上げなくても理解出来る。でも、たいていの文章は「導入を書いて読者をリードした後、言いたい内容へと話を発展させる」という構造を持つ。イントロが終われば、文章は飛躍的に複雑に難しくなってしまうのだ。今の私は、この「論や場面の発展」が来ると理解を放棄してしまう段階にいる。でもこれでも前よりはずっと良い。

 

「何もかもに対して興味を失った状態」が一番その頃の自分に近い表現だと思う。何とか回復したい、そうしないと受験で失敗して社会から、人生からドロップアウトしてしまうと危機感を抱いた私は、何かを好きでいればきっと毎日が楽しいだろうと、世間の人がやっていそうなコンテンツを一通り試した。まずは同年代の遊びから。スマホゲーム、男性アイドル、女性アイドル、歌手、ダンス、メイク、モデルのインスタを覗く、Twitter、テレビ。どれもダメだった。

 

じゃあ他の娯楽の参考にしようと本屋さんで「趣味・娯楽」の棚へ。将棋麻雀チェス…現実生活での対戦相手が居ない上に、ネット対戦は向こうが強過ぎた。料理、断捨離、ガーデニング、自転車整備、掃除、占い、ピアノ演奏、音楽鑑賞、テニス、バドミントン、ランニング、パズル。ダメだった。何かを好きでいるというのは、莫大なエネルギーが要る。嫌いでいるのにもエネルギーが要る。好き嫌いは疲れる。私の毎日から好き嫌いが消えた。何も続けられない。覚えていられない。全てが「どうでもいい」カテゴリにぶち込まれるのである。本当に何もしなかった。朝起きて学校へ行き、曜日によって塾へ寄って家に帰り眠る…という単純なループを繰り返した。朝起き上がれないこともしばしばで、欠席の連絡を頻繁にした。座っているか横になっているかどちらかで一気に体力が落ちた。授業はただ黙って座って板書を機械的に写し、それすら面倒な時はただ黙って時が過ぎるのを待った。無色透明な毎日は豪速球で過ぎるのに、一週間や一か月の経過は遅く感じた。何もせず、昨日と何も変わらない日をひたすら繰り返していたから、季節の変化みたいな差異が大きく感じられて「あれ、冬の匂いがするのにまだ月が変わらないのか」「日の入りがこんなに早くなったのにあの日からまだ二週間しか経ってないの?」とよく思っていた。

 

長い時間をかけ徐々に回復していった私は、その緩やかな流れの中でことばとはなんなのだろう、とつくづく思った。自分の語彙にある表現では表せない状態を前にした時、人はそれをどう認識し形容するのだろうか。日本語の「社会」とペルシア語の「社会」はきっと違う姿の「社会」を指しているのに訳すとのっぺりおんなじになるのはなぜか。頭にある回路がどの言語であるかによって個人の能力も影響を受けるのか。虹は本当は何色なのか。当たり前に使っている日本語の世界は、実際は地球の片隅にぽっかり浮かんだ奇怪な舟のようなものなんじゃないのか。まともな言語とはなんだろう。ちゃんと意味が通じるってなんだろう。何を持ってして相手の言葉を理解したと言うんだろう。本当の理解なんてどこにも存在しないんじゃないのか。

 

言葉というこの不思議なものに、私はまんまと捕まってしまった。不思議で不思議で、苦労させられ、考え込ませられ、ヒヤヒヤさせられ、そして何より美しい。きっと死ぬまで、このヘンなものの探究は続くんだろう。なぜならもう私は言葉の世界に浸りきってしまっているから、外側からそれを眺めることは叶わないのだ、たぶん。

 

 

 

 

死を知らない

 

 

味気ない音楽、刺さる歌詞と隙間にはまり込むようなメロディ。

諦念と無力感を歌うのはプログラムされた機械で、人が作らなきゃ成り立たないからそこには絶対に人間性がある。ペラペラの恋愛、文学も音楽もこの世だけを見ているようだ。

 

21世紀に生まれた私は生々しい死を知らない。死んだ人?身内は老衰や肺炎で亡くなったから死に際は眠るようだった。呆けた親戚は激昂して物を投げつけられる程元気で一向に死ぬ気配が無い。戦争のような死を私は知らない。死んでしまいたいと私の周りの人は言う。今日やらかしちゃってさ〜死にた〜。人生つらいしんどいしにたい。死にたい死にたい死にたい。うんこ機能付きのゴミクズだから死にたいな〜。これ?うん、ちょっと切っちゃってさ。死にたいけど勇気ないから殺して欲しいな〜。そう呟く知り合いで本当に死んだ人を私は知らない。死にたいのではなくこの人生を生きていたくないというだけで、たぶん一億円でほっぺを引っ叩いたら元気になるんだろう。

 

人生に意味は無い。あなたのご両親が作った。あなたが生まれた。それだけ。あなたは自力にせよ他者からの強制にせよ、自分の人生に意味付けをしたはずだ。こんな意味があるのかな。このために生まれてきたのかな。意味なんてないけどとりあえず生きてみようかな。無意味だけどそんなものかな。溢れかえる人生のストーリーはあなたを味付けする。私は生々しい死を知らない。

 

死にたいのではなく生きていたくない。そんな逃避や無力感や絶望や諦めが私の周りには渦巻いている。妬み嫉み悲しみ怒り。言葉で音楽で映像で表現される物語や感情が全く心に響かないのは何故だろう。きっと死がそこに無いから。のうのうと生きていたいという執着しか私の貧しい心には感じられないから。

 

生きる価値のある人間はいるのだろうか。社会の役に立つ人間はいっぱいいるだろう。たくさんの役立たずの上に。

ジーンズから榎本武揚まで繋いでみる

 

リーバイスジーンズ→創業者リーヴァイ・ストラウス。1853年。

《時代背景》
アメリカには当時、大量の移民が流入していた。アイルランド南欧・東欧・中国・インド…
苦力という言葉がある。これはもともとインドの言葉クーリーだったが中国語にも音がハマり苦力と表記されるようになった。インド人や中国人の移住労働者のことを指す。

・なぜインドと中国なのか

インドは当時イギリスの支配で、食物の代わりにアヘンや綿花を栽培させられていた。飢饉と貧困が加速し、人々は国外へ。

中国ではアヘン戦争後、自由貿易が始まり(勿論イギリスがアヘン貿易も公式に認めさせた)、大量に銀が流出していた。国内の銀が減少→高騰。当時の税は銀納制だったため農民は銀が支払えず、貧困が加速し海外へ。

中国系移民やその子孫は華僑・インド系移民やその子孫は印僑と呼ばれる。華僑が話す中国語に広東語が多い理由は、中国南部に港が多かったからじゃないかな…とか予想してみる。

移住した先で労働に従事したが、任される仕事はキツいものばかり。アメリカ大陸横断鉄道建設は「茶(中国人)とウイスキー(アイルランド人)で作られた」と言われる。

苦力貿易と呼ばれる、黒人奴隷もどきみたいな貿易が横行していた。輸送環境は劣悪で、輸送中の死亡・疾病罹患率は50%を越していたとの説もある。到着後も低賃金の過酷な労働で生計を立てていた。泣けてくる。個人的に海外のチャイナタウンが治安悪いイメージなのはこういう背景もあると思う。

アイルランド
アイルランドではジャガイモ飢饉が起こっていた。小麦を買おうにも、本国イギリスの、穀物法という小麦輸入を制限する法律のせいで馬鹿高くて買えない。100万人以上の餓死者が発生し、生き延びる為に多くの人々がアメリカへ。

動きやすいジーンズは港湾・炭鉱などの労働者に人気だった。
港→移民が国外へ行く際に真っ先に到着する場所
炭鉱→従来のズボンはすぐに擦り切れるがジーンズは丈夫で動きやすい

《日本史上のクーリー》

1872年、マカオを出発したペルー行きの船、マリア=ルス号が横浜に寄港した。この船から脱出した清国人青年はイギリス軍艦に助けを求めた。在日英公使館から要請を受けこの船を調査した日本の官憲は、船内で拷問・手錠・断髪などの被害を受けた清国人230を保護した。
日本国内では、二国間交流の開けていないペルーとの揉め事を懸念する声もあったが、国際裁判を開いた。これは日本が国際裁判の当事者となった初の例である。
日本はマリア=ルス号に出航停止措置を取っており、船長はこれを不服として停泊中の損害賠償を求めた。日本側はこれ、清国人の帰国と引き換えにこれを許可。クーリー候補生たちは帰国することが出来た。これは清国側にも苦力貿易の実態を把握する契機となった。これをマリア=ルス号事件という。

ペルー側は不服として、日本に大使を派遣。仲裁裁判の開催への合意が行われ、第三國としてロシアが選ばれた。
1875年6月、ロシア皇帝の仲介のもと、首都サンクトペテルブルクで国際裁判が行われた。この際日本の全権公使として出廷したのが榎本武揚である。日本側の主張は国際法にも人道にも適っているとしてペルー側の主張は退けられた。

また、船長側の弁護士フレデリック=ヴィクター=ディキンズ氏の意見書により、日本国内の遊女の待遇見直しが図られ、1872年の芸娼妓解放令のきっかけとなったと言われる。