ジーンズから榎本武揚まで繋いでみる

 

リーバイスジーンズ→創業者リーヴァイ・ストラウス。1853年。

《時代背景》
アメリカには当時、大量の移民が流入していた。アイルランド南欧・東欧・中国・インド…
苦力という言葉がある。これはもともとインドの言葉クーリーだったが中国語にも音がハマり苦力と表記されるようになった。インド人や中国人の移住労働者のことを指す。

・なぜインドと中国なのか

インドは当時イギリスの支配で、食物の代わりにアヘンや綿花を栽培させられていた。飢饉と貧困が加速し、人々は国外へ。

中国ではアヘン戦争後、自由貿易が始まり(勿論イギリスがアヘン貿易も公式に認めさせた)、大量に銀が流出していた。国内の銀が減少→高騰。当時の税は銀納制だったため農民は銀が支払えず、貧困が加速し海外へ。

中国系移民やその子孫は華僑・インド系移民やその子孫は印僑と呼ばれる。華僑が話す中国語に広東語が多い理由は、中国南部に港が多かったからじゃないかな…とか予想してみる。

移住した先で労働に従事したが、任される仕事はキツいものばかり。アメリカ大陸横断鉄道建設は「茶(中国人)とウイスキー(アイルランド人)で作られた」と言われる。

苦力貿易と呼ばれる、黒人奴隷もどきみたいな貿易が横行していた。輸送環境は劣悪で、輸送中の死亡・疾病罹患率は50%を越していたとの説もある。到着後も低賃金の過酷な労働で生計を立てていた。泣けてくる。個人的に海外のチャイナタウンが治安悪いイメージなのはこういう背景もあると思う。

アイルランド
アイルランドではジャガイモ飢饉が起こっていた。小麦を買おうにも、本国イギリスの、穀物法という小麦輸入を制限する法律のせいで馬鹿高くて買えない。100万人以上の餓死者が発生し、生き延びる為に多くの人々がアメリカへ。

動きやすいジーンズは港湾・炭鉱などの労働者に人気だった。
港→移民が国外へ行く際に真っ先に到着する場所
炭鉱→従来のズボンはすぐに擦り切れるがジーンズは丈夫で動きやすい

《日本史上のクーリー》

1872年、マカオを出発したペルー行きの船、マリア=ルス号が横浜に寄港した。この船から脱出した清国人青年はイギリス軍艦に助けを求めた。在日英公使館から要請を受けこの船を調査した日本の官憲は、船内で拷問・手錠・断髪などの被害を受けた清国人230を保護した。
日本国内では、二国間交流の開けていないペルーとの揉め事を懸念する声もあったが、国際裁判を開いた。これは日本が国際裁判の当事者となった初の例である。
日本はマリア=ルス号に出航停止措置を取っており、船長はこれを不服として停泊中の損害賠償を求めた。日本側はこれ、清国人の帰国と引き換えにこれを許可。クーリー候補生たちは帰国することが出来た。これは清国側にも苦力貿易の実態を把握する契機となった。これをマリア=ルス号事件という。

ペルー側は不服として、日本に大使を派遣。仲裁裁判の開催への合意が行われ、第三國としてロシアが選ばれた。
1875年6月、ロシア皇帝の仲介のもと、首都サンクトペテルブルクで国際裁判が行われた。この際日本の全権公使として出廷したのが榎本武揚である。日本側の主張は国際法にも人道にも適っているとしてペルー側の主張は退けられた。

また、船長側の弁護士フレデリック=ヴィクター=ディキンズ氏の意見書により、日本国内の遊女の待遇見直しが図られ、1872年の芸娼妓解放令のきっかけとなったと言われる。